3 会話パートナーをやって
熊谷孝子
本日は北多摩失語症友の会「若竹」の皆さんが群読発表することに
なり同行してきました。
また、担当の方から「どんな気持ちでボランティアをしているのか?思いを是非短く話してほしい」と依頼がありましたので、そのことをお話します。
私は母が脳梗塞で倒れ、失語症になり、どうしたら言葉を失った母が
以前のように話すことができるようになるのか?
周りには失語症の方がいらっしゃらないので、聞くこともできず、言語リハビリをしてもお医者様からは年単位で見守っていってくださいと言われ、途方に暮れていた時に、新聞で「失語症会話パートナー」の養成講座の記事を見て、即、問い合わせ受講しました。講座終了後、実習した縁もあり、「若竹」で月2回の例会に伺わさせていただくようになり8年になります。
最初は母のために始めた会話パートナーだったのですが、いつの間にか「若竹」のメンバーの皆さんと一緒に過ごす時間の居心地の良さにどっぷりはまってしまいました。
なかなか出てこない言葉に、もどかしく、待って、待って、やっと出た言葉に「あ~そうだったの!」とお互いが笑顔になる瞬間。最高の喜びです。
また、皆さんが思うように話せない分、相手に対する気遣いは素晴らしいです。
人としての大切な思いやりを何時も気づかせてくれます。
今回、渡辺さん、谷田さんが会話パートナーへの思いを発表してくださいましたが、この生の声は会話パートナーを続けていく上でとても励みになりました。
この機会を作っていただいたことに感謝いたします。
また、今年度、東京都で意思疎通支援者養成講座の募集がありました。当事者の声に背中を押してもらい講座を申し込みました。これから私自身、失語症者のお役に立つ支援のために学んで、さらにスキルアップしていきたいと思っております。
今日はありがとうございました。
泉マヤ
泉です。2002年にNOP法人和音の養成講座を終了後、失語症の自主グループ、友の会、デイサービスなどでボランティアをしています。
① ボランティアを始めたころから、「会話パートナーとして皆さんの役に立っているのか?」不安に思っていました。今日は直接話を聞けて良かったです。
② 初めの頃は1対1でお話しすることがあっても、「やり取りをしなければ」とばかり思って、質問攻めにしてしまい、あとで反省しきりでした。その頃は「沈黙」の時間は「空白」のようで、待っているのが大変でした。
③ 駆け出しの頃、ある方の若い頃の話を伺っていて、どうしても何をおっしゃりたいか分からないことがありました。しばらく間を置いて「先ほどの事は…」と窺うけれど、またヒットしない。間を置きながら何回も伺ってやっとたどり着いた時、1番初めのあのジェスチャーはこの事だったのねと分かりました。
失語症の方は自分から言葉を尽くして言う事はできないけれど、言いたい事はきちんとあって、時間をおいてもその話にまた戻ることができる。ぶれないし、こちらが手間取っても腹を立てず、続きに付きあってくださる。それってすごい事です。なんで忍耐強い方々かと思いました。また、次第に「この方々は今どういう道筋で考えているのかな」と、相手の事に気が向くようになりました。
④ 最近、自主グループの「おしゃべり会」に参加するようになって、さらに新しい思いになりました。この会は「STも家族も入れない、失語症の自分たちだけのおしゃべり会」で会話パは板書役です。
たとえば、メンバーが他の方に「何がある?」と振ります。「ん~~~」何か言いたいことが出てくるのをメンバーも私も一緒にじっと待っています。
「あ!そうだ」という表情になる。でも言葉は出てこない。「えーと、ん~~」。以前なら助け船を出したくなるところですが、今の私は心の中で「よしよし、いいぞ、いいぞ、今○○さんの頭の中で、神経回路が盛んにつながろうとしてるんだ。がんばれシナプス!」という気持ちになり、わくわくして待っていられます。「ん~~~」という沈黙の時間が、「空白」ではなく、今は正にゴールデンタイムに思えます。
⑤ 失語症の方はどなたも、大切な脳の一部を損傷され、一死に一生を得られた、サバイバーです。私などは想像もできない過酷な経験を乗り越えて来られた「先輩」。私たちの先を行く方々です。そんな皆さんによくぞ巡り合えた、どうその人らしく日常生活を送っていくのか見届けたいし、応援していきたい。そういう気持ちで今ボランティアをしています。ありがとうございました。